浪速の詩人工房

「一太郎やーい」 四国講演旅行続編


 多度津町も人口二万四千の小さな町。町の北西部の小高い山の上、多度津港や町の中心部が一望できるところに桃陵公園というのがある。ここへタクシーで登った。
 このあたりには、急峻の地を利用した中世の城郭があったらしいが、一九三一年(昭和六)昭和天皇即位の記念事業として、頂上に達する道路がつけられ、この公園が造成されたとのことである。今や、二万数千本もの桜の木がある行楽地として、近隣に聞こえている。
 私がわざわざここへ立ち寄ったのは、ここに建っている「一太郎やあい」の像を見たかったからだ。  実はこれは、いま七十代も半ば以上になる私たちの世代が、小学校の国語教科書で習った有名な「軍国美談」の一つなのだ。次にその全文を掲げてみよう。

「一太郎やあい  日露戦争当時のことである。軍人をのせた御用船が今しも港を出ようとした其の時、 「ごめんなさい。ごめんなさい。」といい、見送人をおし分けて、前へ出るおばあさんがある。年は六十四五でもあろうか、腰に小さふろしきづつみをむすびつけている。御用船を見つけると、
「一太郎やあい。其の船に乗っているなら、鉄砲を上げろ。」
とさけんだ。すると甲板の上で鉄砲を上げた者がある。おばあさんは又さけんだ。
「うちのことはしんばいするな。天子様によく御ほうこうするだよ。わかったらもう一度鉄砲を上げろ。」
 すると、又鉄砲を上げたのがかすかに見えた。おばあさんは「やれやれ。」といって、其所へすわった。聞けば今朝から五里の山道を、わらじがけで急いで来たのだそうだ。郡長をはじめ、見送の人々はみんな泣いたということである。」

 こうしたエピソードの出所が、他ならぬこの多度津なので、それに照応してここ桃陵公園に、港の方にむかって高く右手をあげている着物姿の素朴な老母の立像が建てられたのだった。
 今なお残る立像は、一見して銅像のように見えるが、実はコンクリート製で、一九四三年(昭和一八)に再建されたものなのだ。
 元の立像はれっきとした銅像で、一九三一年(昭和六)に同じ場所に建設されのだが、一九四一年(昭和一六)、アジア太平洋戦争がはじまると、日本は極度の金属不足におちいり、それをおぎなうために、この銅像もつぶされて兵器に化けてしまったのである。
 この「一太郎やあい」の立像は、あきらかに戦争の遺物、軍国主義のシンボルである。しかし日本の敗戦直後に進駐してきて、日本軍国主義の解体をめざしていたアメリカ占領は、この像を撤去せよとまでは言わなかったようである。そのため多度津町では、自ずとこれを残すことになったのだ。
 しかし、いくらなんでも、戦時中そのままの姿で残すわけにはいかなかったらしく、この立像を支える土台の一角にはめこんであった、なにかの文面をしたためたプレートをはがした痕跡が残っている。いったい、ここには何が書かれていたのだろうか。私はそれを知りたいと思った。
 そして、やはり立像を支える土台の一角、之とは別の箇所に、「前銅像ハ大東亜戦酣ナルトキ金属回収ニ供出セリ 此ノ一太郎やあいハ真ノ母性愛ヲ表徴セルモノニシテ永遠平和ヲ記念センガ為再調シタルモノナリ」
と記した銅板がはめこまれている。このプレートには、年月の記載がないので、いつ作られたものか分からない。
 また立像の側に「奉公記念碑」という題字をつけた、かなり大きな石碑が一九三六年(昭和一一)に建碑された時のままに残されている。これを読むことにより、立像の土台にはめこまれていたのに、戦後になってからはがされたプレートには、前記の教科書掲載の「一太郎やあい」の全文が彫り込まれていたことが分かった次第だ。 では多度津町では、何故この銅板をはがしてしまったのだろうか。立像は残してもいいが、この軍国美談の文面だけは削除せよと、アメリカ占領軍もしくは日本政府から指令が出たのだろうか。それとも多度津町の方で自主的に削除したのか。今となれば役場でも分からないということである。
 日本の敗戦当時のことを振り返ってみると、文部省は占領軍の指令を受けたこともあって「国民学校教科書」に載っていた「軍事教材」を「全文削除」するようにとの通牒を、全国の小学校に発している。その頃の教科書には既に「一太郎やあい」は姿を消していたが、 「広瀬中佐」「水兵の母」「水師営」など古くからの軍事教材の他「三勇士」「にいさんの入営」「不沈鑑の最後」「シンガポール陥落の夜」など比較的新しい教材がたくさん載っていた。そのすべてを削除せよというのである。そのため小学校の子どもたちは、先生の指導のもとに、教科書に墨を塗ったり、紙を貼ったりして、これらの教材を抹殺したのだった。世にこれを「墨塗り教科書」という。
 そこで、多度津町の「一太郎やあい」の立像の土台にはめこまれていた、教科書の文面入りのプレートがはがされたのも、やはり教科書の墨塗りと同種の行為だったとも考えられるのである。

 戦時中に軍国主義教育のため、小学校の教科書に麗々しく掲げられた数々の軍国美談の陰には、その内容とはおよそ似つかない裏話があったことは、こんにち明らかにされている。「一太郎やーい」もその例外ではなかった。そこで資料にあたって、まずこの美談の事実関係から押さえていくことにする。 一九〇四年(明治三七)八月二八日、日露戦争当時のこと、多度津の埠頭から軍用船土佐丸と神州丸の二隻に、香川県丸亀の歩兵第十二連隊補充大隊の兵士たちが乗り込もうとしていた。乃木希典大将が指揮する第三軍の旅順攻撃戦に参加するためだ。当時の戦況を見ると、既に八月十九日におこなわれた旅順第一回総攻撃は失敗に終わり、第三軍では一万五千八百六十人もの死傷者を出していた。
 したがって、その補充のため軍用船に乗り込む将兵の心境には悲壮なものがあったはずだ。これらの兵士のなかに教科書でいう「一太郎」実は本名「岡田梶太郎」がおり、それを見送るべく老母「かめ」が遠い山道を夜通し歩いてここ多度津へやってきたのだった。そして、ここで教科書に載せられたエピソードのような、見送り場面が展開されたのである。
 ちょうど港には香川県の小野田知事、桑原部長といったお偉方をはじめ多数の役人も見送りにきていたが、この母と子の別れを目撃して、彼らは一様に感激した。あとで知事らはこの老母に少し語りかけたが、かんじんの住所・氏名を聞くことをしなかった。
 以来、桑原部長は県下の市町村長や教育関係者との会議や講演会に臨む度に、この老婆の話をしては、その身元を確かめるように依頼したが、日露戦争が終わってからも依然不明だった。

 それから年月は流れて、大正の世となったが、この美談は人から人へと語り継がれ、廻り廻ってついに東京在住で文部省図書局の小学読本編纂官をしている高野展之の耳に入り、更に国語読本編纂中の八波則吉に伝えられた。八波は、このエピソードは児童に愛国心と親孝行の芽を育てるのに恰好の教材になると判断、早速、一文を草して国語教科書に載せたのだった。この段階では八波は「梶太郎母子」の実態はなんにも知らず、老婆は既にこの世にはいないと思っていたらしい。つまり八波はあやふやな伝聞だけを頼りに、この軍国美談を仕上げたのだった。梶太郎という名が一太郎になったのもそのせいだった。
「一太郎やあい」が教科書に掲載されると、世間ではこの物語の主である母子探しの運動が、にわかに広まった。そして、香川県三豊郡の地元の小学校長によって、ついに岡田かめ・梶太郎母子の存在が突き止められたのだった。このニュースは、当時、朝日新聞高松支局員がスクープするところとなり「大阪朝日新聞」は「新学期の小学読本に美談『一太郎やあい』。出征の倅の船を見送って防波堤に叫んだ老母の真ごころ。物語の主人公は生存」「今は廃兵の勇士が悲惨な生活」という見出しで大々的に報じたのである。
 梶太郎は日露戦争に二度も応召し、肩に貫通銃創を受けたりしながらも、いちおう命長らえて帰還した。その後、妻を娶ったのはいいが、戦地でかかった凍傷が悪化し、両手の指を六本も切断する羽目となってしまった。もともとあばら屋に住んで貧乏な上、梶太郎がこのような状態なので生活は苦しく、その子供が小学校へ持っていく弁当にも事欠く有様だった。
 こうした廃兵の実態が報ぜられると、母子の美談を教科書に載せた文部省の関係者の間に衝撃が走った。死んだはずの老母が生きていただけでなく、日露戦争の勇士である一太郎が廃人同様の身になってしまって、親子もろとも生活困窮におちいっているとあれば由々しき事である。教科書に載せる人物はみな立派な人格を持ち、立派な人生を送った人でなければならないからだ。
 では、どうすればいいのか。いまさら教科書の美談を取り下げるわけにはいかない。そこでいま生きている梶太郎親子に、教科書にふさわしい人物になってもらうしかない。ここから朝野あげての一太郎親子の救済運動がはじまるのである。
「岡田母子をはげまそう」という声が全国各地で起こり、義捐金や慰問品、激励の手紙が続々と寄せられた。地元の豊田村では村長を会長とする後援会が作られる。
 一九二二年(大正一一)一一月、香川県下での陸軍特別大演習の際には、統監摂政宮殿下(後の昭和天皇)のお馬近く拝謁の光栄に浴した。翌大正一二年五月、大阪は中之島の中央公会堂に於いて、大阪市教育会主催で、第四師団長、大阪府知事、大阪市長、府市会議員、市婦人会、小学児童二万二千四人が参列の上、盛大な母子の篤行表彰式があげられた。
 そして昭和六年六月、多度津の桃陵公園にくだんの銅像が建設されたのだった。また十一月には上京して昭和天皇に拝謁している。
 こうして母子の悲惨な生活は、たちまち栄光につつまれた境涯へと一変していったのである。こうなると母子を讃えた伝記が刊行され、また映画や演劇にもなるなどして、母子は一躍有名人に祭り上げられていくのである。

 ところで、岡田かめは昭和九年、つまり生きながら銅像になってから三年後に、八十三歳で死亡している。  また、岡田かめは軍用船に乗る息子を見送った時、 教科書にあるように「天子さまによく御奉公するだよ」と叫んだ事実はなく、この殺し文句は、どうやら文部省の創作だったらしいことも、戦後になってからあきらかにされている。
 しかし、地元にひろがった「一太郎やあい」の人気そのものは戦後もいっこうに衰える気配はなく「一太郎飴」や「一太郎弁当」が売り出されたりした。
 一九六八年(昭和四三)一月の「産経新聞」では「ことしは明治百年。かつて『軍国の母』『出征美談』『忠孝美談』など、いろんな名称で呼ばれ、賛美された『一太郎やあい』もやっと軍国調から抜け出し、現代調の『祖国愛と母子の愛情』の角度からクローズアップされようとしている。桃陵公園の『一太郎やあい』の像も軍国の母としてではなく一人息子を出征させた『母性愛のシンボル』に生まれかわった。多度津町にとっても、明治、大正、昭和の三代の女性に共通する生きた観光資源となっている」などと書いている。
 私は「一太郎やあい」がはらむ問題を、このような安易な形で整理してしまうことに疑問を持つ。地元の多度津町当局には望むべきもないが、軍国主義に翻弄された岡田母子の生涯はあくまで正確に伝えるべきだと思う。「一太郎やあい」の物語から、軍国主義を抜き去って、ただ母性愛だけを前面に押し出すなんて、それは歴史をいつわるものである。
 私は桃陵公園の老母像の下にたたずみながら、眼下に展開する多度津の埠頭と、そのむこうで銀色に輝く瀬戸大橋を、日が暮れかかるまで眺めていた。そして慌てて、多度津駅から大阪へ行く列車に飛び乗ったのだった。

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