浪速の詩人工房

銃殺された昇り龍に捧げる歌

 十五年戦争に従軍体験を持つ者で、上官から私的制裁を一度も受けたことがないと言い切れる者がいるだろうか。もしいるとすれば、そいつはモグリだ。日本の軍隊からリンチをとってしまったら、後にはなんにも残らないといっても決して過言ではない。
軍隊に入ってまだ間もない初年兵が、教育係の下士官や上等兵から訳の分からぬ言掛りをつけられて、いきなり食らわされる痛烈なビンタ。この最初の私的制裁を受けることにより、兵士は否が応でも覚らされるのだ。軍隊は暴力が支配する異常な社会であることを……。
私的制裁は軍隊では一番弱い立場にある初年兵に対して、集中的におこなわれる。上官は、やれ兵器の手入れが悪いといっては初年兵を殴る。軍服のボタンがはずれている、軍帽の被り方が悪いといっては殴る。やれ動作が鈍い、返事の仕方が悪い、態度が太いといっては殴る。『軍隊内務書』や『作戦要務令』の綱領の暗記が出来ていないといっては殴る。一人の初年兵がなにかでしくじると、連隊責任だといってその班に属する全員に制裁を加える。まこと上官が部下にリンチを加える際につけるイチャモンは、星の数ほどあったのだ。
 私的制裁の仕方も平手で殴るものから始まって、兵士用の幅の広い革製のベルトを二つ折りにして殴る《帯革バッチ》。上靴(革製のスリッパ)で殴る《上靴バッチ》。竹刀で殴る。木銃の先でつつく。三八式歩兵銃の床尾で打撃を与える。軍馬の糞便を被制裁者の口中に押し込むものに至るまで、その種類は千差万別。時には上官が直接手を下さず、被制裁者に腕立て伏せを何回もやらせたり、三八式歩兵銃を長時間両手で高く差し上げさせたり、複数の被制裁者を向かい合わせに並べて、相打ち式に殴り合いをさせる《対抗ビンタ》というのもあった。
 こうした私的制裁は初年兵の時にだけ受けるとは限らない。二年兵や三年兵の古参兵になっても、いつなんどき自分より階級もしくは年功序列が上の者からやられるか知れなかった。では下士官や将校に進級すれば、私的制裁から完全に免れることができるかといえば、そうはいかないのが軍隊の仕組みだった。とはいえ下級兵士になればなるほど私的制裁を頻繁に受け、下士官はたまにしか受けず、将校ともなればほとんど受けることがないというのが実状だった。
これとは逆に、部下に私的制裁を加えることができる権限は、階級が上になればなるほど強大になることはいうまでもない。図式通りに行かないにしても、二年兵は初年兵しか殴ることができないが、下士官はすべての兵士を殴ることができるし、将校は下士官でも兵士でも自由に殴れる立場にあった。
 では上官から私的制裁を受けた兵士は、いったいどんな気持ちになるのだろうか。「畜生、やりやがったな!」という怒りが全身を駆けめぐる。たとえ自分に落ち度があったとしても、なにも暴力をふるわれる覚えはないのだから、上官の仕打ちには絶対に納得出来るものではない。むしろ上官を殴り返してやりたいという思いがむらむらと沸き上がってくる。けれどもそれが出来ない。どんなにやりたくともそれだけは出来ない。それをやればたちまち捕らえられて重営倉にぶちこまれるし、悪くすれば『陸軍刑法』で定める上官に対する「暴行脅迫の罪」および「侮辱の罪」にあたるとして、軍法会議にかけられ陸軍刑務所行きとなるのだ。
 だから私的制裁を受けた兵士はいついかなる場合でも泣き寝入りするしかなかった。夜になって消灯ラッパの音を聞き、寝台に横たわってから、ひとり悔し涙に暮れるしかなかった。そしてしきりに空想に耽るのだ。理不尽な暴力をふるった上官に復讐すべく、断固として立ち上がった勇敢な自分の姿を。「この野郎、ぶっ殺してやる!」と上官に向かって実弾をこめた三八式歩兵銃の銃口を突きつけてやると、あんなに威張っていた上官は青くなってぶるぶる震えだし、土下座して命乞いをしているではないか。そいつの顔面を軍靴で思いきり蹴りあげてやるのだ。
 また同年兵たちと一緒に私的制裁を受けたあとは、憎い上官をみんなしてやっつけたら、どんなに気持ちがせいせいするだろうかとひそかに語り合って、わずかに自分を慰める。「今度の作戦で中国軍と撃ち合いになった時、あの上官を後ろから撃ち殺して、素知らぬ顔をしていようじゃないか」と到底実現しそうにない密議をこらしては、せめてもの憂さ晴らしをする。
だが現実には、どんなに暴虐な上官でも絶対に刃向かうことができない。明治四十年代に大元帥陛下により裁可された『陸軍刑法』ならびに『陸軍懲罰令』という苛酷きわまる悪法によって固められた軍隊の鉄の規律を、どうしても打ち破ることはできない。上官の暴力を御無理御尤もと受け入れるしかない。我慢するしかない。泣き寝入りするしかない。しかしこんなことで兵士の人間性が全うされるだろうか。 上官から無理無体なイチャモンをつけられたあげく、陰湿で陰惨な私的制裁を加えられているにもかかわらず、ただの一言も抗議できないような人間がはたして人間といえるだろうか。兵士は人間としての尊厳を放棄し喪失した、生ける屍になりさがってしまっていたのだ。限りなく堕落してしまっていたのだ。
 ところが初年兵の時さんざん私的制裁に泣かされたきた者も、ひとたび古参兵となるや否や、待ってましたとばかりに威張りだして、今度は自分たちの後輩の兵士に対して、自分たちがやられたのとそっくり同じリンチを加えることにより、元を取り、鬱憤を晴らし、復讐を成り立たせようとするのである。つまり軍隊に於ける私的制裁とは、先輩から後輩へと律儀に申し送られてきた公然の悪慣習、悪制度だったのだ。かくして兵士は、上官から理不尽な私的制裁を加えられながらそれに一言も抗議しないことによって精神を荒廃させるだけでなく、これとは逆に今度は全くの無抵抗を余儀なくされている部下に対して、ほしいままに暴力を振るうことによって、いよいよ精神を荒廃させていくしかなかったのである。
 いまから五十年のその昔、私たちは中国の戦場で敗戦を迎え、一年あまりの捕虜生活を送ったのち内地へ帰還してきた。苦難に満ちた戦場生活を耐え抜いてきた勇者といえば、すこぶる聞こえはいいが、実は私たちはあの暴虐な軍隊の私的制裁に全面屈服することによって、辛うじて生き残ることが出来た卑怯未練な男たちばかりだったのだ。
 さて戦後十年、二十年と日がたつにつれて、戦争や軍隊の隠された事実が次々と明るみに出てくるようになった。それらの資料を拾い読みしては、今更のように戦争の奥深さと恐ろしさと滑稽さと馬鹿らしさに深く感じ入るのが、いつしか私の慣い性となってしまっているようだ。しかしそのような私でも、軍隊内で兵士が徒党を組み武器を引っ提げて反乱を起こしたり、上官に暴行を働いたという話だけは絶えて聞くことがなかった。上官の制圧に手も足も出せなかったのは、なにも私が所属していた部隊だけではなかったのだ。もっとも兵士が単独で発作的に上官に暴行を働いて処罰されたり、不問に付されたりした事例なら、少数ながらあちこちの部隊にあったことを私も見聞したり資料でたしかめたりしたことがある。
 
 ところがある日、私は中之島図書館で戦争関係の資料を漁っていて、中国に駐屯していた日本軍の中で「館陶事件」とよばれる本格的な上官暴行事件が起きていたことを知ったのだった。私が受けた衝撃は大きかった。事件は昭和十七年十二月二十七日、中国は華北の山東省館陶県に駐屯する独立歩兵第四十二大隊第五中隊内で起きている。この中隊の兵士六名が他部隊へ転属するように命令が出されたことに不満を抱き、飲酒酩酊の上、常日頃からの上官に対する不満を一挙に爆発させて暴力をふるうは、三八式歩兵銃に実弾を込めて発射するは、手榴弾を投擲して炸裂させるはなどして、兵舎の内外で暴れまくったというのが事の次第である。
 この第五中隊というのは、昭和十七年四月に北支派遣軍の中で新たに編成された第五十九師団の麾下部隊で、山東省の省都・済南の西方約十六キロの館陶に駐屯して中国共産党軍と対峙していた。中隊の兵員は約二百名で、その全員が他の部隊から転属してきた兵士で占められていた。つまり歴史も伝統もないにわか作りの寄せ集め中隊であった。
 私自身、最初は歩兵部隊に所属していたのに上官に忌避されて、兵科が全然違う航空部隊に転属させられたという経験があるので、この辺の事情はよく理解できるのだが、どこの部隊でもお気に入りの兵士は絶対に転属させない。事故を起こした者、成績の悪い者、扱いにくい者、はみだし者を転属させるのが常だ。これまた私の体験だが、この転属というものほど兵士の心を傷つけるものはない。
 さて第五中隊長に信任された福田中尉は当年とって三十歳。横浜市の出身で明治大学専門部を卒業している。彼は幹部候補生上がりの将校で、応召で妻子を残したまま華中の前線へ来たのだった。その風貌は長身白皙、ロイド眼鏡をかけたインテリ風の好男子で、決して勇猛果敢な将校ではなかったという。この中隊長が人事係准尉とともに部下の兵士の身上調査をおこなって愕然とした。二百名あまりの中隊兵員中、なんと入れ墨をいれた兵士が二十三名もいるのだ。更にその中に、尻から肩にかけて極彩色の見事な「昇り龍」の入れ墨をいれた向里上等兵と、上半身に般若を彫っている塙上等兵、右腕に流れ星を彫っている草柳一等兵の三人は歴としたやくざで、性格は粗暴、しかも酒に酔うとなにをしでかすか知れたものではないという、札付きの古参兵であることが判明した。これでは誰がみても、第五中隊は他部隊から厄介払いされてきた問題兵士の収容所に過ぎないことはあきらかだ。ここで福田中尉はよほどの決心と断固たる方針でもって臨まないかぎり、とてもやないが第五中隊は統率出来るものではないとの認識をもつべきだった。しかし彼は優柔不断な男だった。
 間もなく向里上等兵は週番下士官に実弾を装填した三八式歩兵銃の筒先を突きつけて震え上がらせたり、分遣隊の隊長である将校を殴打した上、日本刀で斬りつけようとしたといった上官暴行事件を続けざまに起こした。中隊幹部は、向里の重大な軍紀違反を大隊本部へ報告して軍法会議にかけるべきだ進言した。しかし福田中隊長は穏便な措置ですましてしまった。その理由として福田はこうした事故を上部機関に知られると、自分の昇進に差し障りが出ると判断したためだ。それにもう一つ、福田は兵舎の近くで慰安所を開設している朝鮮人経営者の娘と懇ろになり、そこに足繁く通っているという弱味があったからだ。また中隊幹部の将校や下士官も福田と大同小異のことをしていた。
 そのため中隊の軍紀は乱れる一方だった。もはや古参兵たちは上官と出会ってもろくに敬礼をしない。兵舎内で常時酒盛りをする。花札賭博をやる。夜になると脱柵して慰安所へ女を買いにいくといった有り様だった。中隊の将兵あげて、なぜこんな勝手な真似が出来たかというと、大隊本部の監視の眼が届かない前線の町に君臨する部隊なればこそだ。 しかし、福田中隊長も人事係准尉もなんとかして向里上等兵らの不良兵士を、中隊から追放しなければならないと考えていた。そこへ降って湧いたかのように、南方の戦線行きの新部隊が編成されるので、中隊から十名の転属要員を差し出すようにと大隊本部から命令が来たのである。福田は天の助けとばかりに、この話にとびついた。そして向里上等兵、塙上等兵、草柳一等兵といった三人のやくざ兵士をふくむ十名の兵士に転属命令を出したのである。
 ところがこの人事に兵士らは憤激した。彼らにすればもといた連隊から厄介払いされてこの第五中隊へやって来たばかりなのに、またぞろ危険な南方行きの部隊へ追放されるのだからたまったものではない。中隊幹部は送別会を開いて転属兵士のご機嫌をとろうとしたが、彼らは納得せず、向里を中心とする六名の兵士が兵舎の内外で酒を浴びるように呑み、その勢いで縦横無尽に暴れだしたのである。はじめは中隊の将校や下士官に暴力をふるうだけだったが、ついに衛兵所を襲って小銃と手榴弾を持ち出したので、福田中隊長以下ほとんどの将兵は難を避けて兵舎の外へ逃げだしてしまった。 こうした中隊あげての大騒動を起こして、ただですむ道理がない。やがて憲兵隊に拉致された向里上等兵ら六名の暴れん坊たちは軍法会議にかけられた。向里上等兵と塙上等兵には死刑の判決が下され、他の兵士たちも無期懲役などの厳罰に処せられた。中隊幹部の鈴木少尉と日下曹長、それに衛兵四名も官位を剥奪されて禁固刑に処された。福田中隊長は大隊長、旅団長、憲兵隊長といった高級将校から連日連夜、詰問と叱責をうけたあげく、責任をとって拳銃で自決するようにしむけられ、無念の涙をのんで死んでいった。向里、塙の両上等兵は済南市郊外の臨時刑場で銃殺された。
 向里上等兵が風呂に入ると真っ白な肌の上に鮮やかに踊り出たという、極彩色の見事な昇り龍は、とうとう銃弾の餌食にされてしまったのだ。こうしたやくざ兵士は同じ中隊にいる兵士たちにとっては決して善き戦友ではあり得なかった。ために彼らを一概に讃美することはできないが、鉄の規律を誇る天皇の軍隊にたとえ小さな風穴なりとも開け得たのは、刑死後その遺骨にまで荒縄をかけられたという、彼ら昇り龍の英雄たちだけだった。これとは逆に、私のようにどんなに屈辱的な私的制裁をうけてもただ泣き寝入りするだけで、絶対に上官に反抗できなかった、あまりにも意気地なしであまりにも穏健な兵士ばかりがいたために、大規模な軍隊内反乱はついに一度も起きなかったのである。

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