浪速の詩人工房

八・一五の靖国神社探訪記


威風堂々の「海軍陸戦隊」の行進。靖国神社にて。

日露戦争の将軍(中央)と大東亜戦争の将校二人。

「戦友」と交歓する井上俊夫(中央)


 私は八月十五日の終戦記念日に、靖国神社へ行ってきました。この日の靖国神社は大変な賑わいとなり、境内では右派勢力の集会が開かれたり、旧日本軍の軍服に身を固めた連中が何人も姿をあらわすと聞いていたので、どんな様子か見に行った次第です。

 私は十年前、「日中戦争で戦死した大阪生まれの英霊の声」という詩を書くために靖国神社を取材して以来、何度かここを訪れています。行く度に違った神社の「顔」に接してきました。
 
 昨年はちょうど、秋季例大祭が執り行われている日に行きました。この時私ははじめて、衣冠束帯に威儀を正した勅使一行(総勢五名、うち正使三名)が、天皇の御幣物をうやうやしく捧げ持って参拝する姿を見ました。 また、そうした天皇の名代を最敬礼で出迎えるために集まった数十名もの婦人たちが、晴れがましい留め袖姿で参道に整列している姿も見ました。婦人たちの胸には一様に「武蔵野御陵・昭和天皇崇敬会」という名札が麗々しく掲げられていました。昔はこうした勅使を出迎える役割は、軍服に身を固め、三八式歩兵銃や銃剣でいかめしく武装した近衛連隊の儀仗兵がはたしていたはずです。しかし今は、こうした「婦人儀仗隊」がその代わりをつとめているわけです。この艶めかしい儀仗隊を指揮するため、あちこち嬉しそうに飛び回っていたのは、燕尾服を着てシルクハットを手に持ったハゲ頭の男でした。
 
 さて、今年の八月十五日の靖国神社は、気温三十六度の炎天下にあるにもかかわらず、午前九時にはもう境内は大変な人出でした。こんなに人が溢れている神社は見たことがありません。今まで神社へ行く度に「英霊にこたえる会」という右派の団体が、境内にテーブルを持ち出し「東京裁判史観の洗脳から脱却しましょう」とか「日本には戦犯と呼ばれる人は一人もおりません」などと書いたのぼりを何本も立て、特攻隊の活躍などを賞揚する多数のパネルを掲げたりして、宣伝にこれつとめている姿が見られましたが、この日はとくに大勢の活動家が出動していました。
 
 この会のパンフレットをみると、ここには偕行社、水交会、全国戦友会連合会、日本傷痍軍人会、軍恩(軍人恩給)連盟全国連合会などの旧軍人関係の組織に、日本遺族会、神社本庁など三十ほどの団体がいわゆる「中央参加団体」として名を連ねており、更に北海道から沖縄に至るまで全国的に「都道府県本部」というものをもつ、かなり大きな組織のようです。この会は「大東亜戦争」を肯定する立場から「かの戦争は断じて日本がしかけた侵略戦争ではない。侵略よばわりすると靖国の英霊を冒涜することになる」などと主張し、なによりも内閣総理大臣の靖国神社公式参拝の実現を目指しているのです。
 活動家はいずれも「英霊にこたえる会」と墨書した白たすきを肩にかけ、旧海軍の戦闘帽に似せた白い制帽をかぶっています。年の頃をみれば七十代以上で、従軍体験がありそうな連中が多く、その中にあきらかに戦後生まれと知れる若い活動がまじっています。
 
 ところで私が見たいと思っていた、旧陸海軍の軍服を着た連中ですが、これは目立ちますから、境内の人混みの中ですぐに見つけることができました。まず旧陸軍の将校の制服を着て、腰に軍刀をぶら下げた二人の男が視界に飛び込んできました。一人は三十二、三歳、もう一人は四十代の初めぐらいの年恰好です。二人とも戦争体験など全くないことは明らかです。
 
 私は陸軍中尉の階級章をつけた若い方の男と、ちょっと話をしてみました。この男、一見して体格はあまりよくありません。それに少しにやけた感じがしたのですが、軍刀の柄をしっかと握りしめながら、老兵である私の質問にテキパキと答えてくれました。
「あなたはまだお若いから、もちろん従軍体験はないですよね」
「はい、ありません」
「それなのに、なぜ、そんな軍服を着てるの?」
「今の日本の社会はコンダク(混濁)、コンメイ(混迷)しています。若者はみんなココロザシ(志)を失い、フニャフニャの根無し草にされてしまっています。これではいけない。こういう世の中をシャンとしたものに建て直す必要があります」
「そういうあなたの考えと軍服を着ることとは、どんな関係があるの?」
「まず自分が軍服を着て、キリッとしたところをみせたいのです。日本人が忘れてしまっている大事なものを見せたいのです」
「では、あなたは戦争をしていた頃の日本には、今の日本が失ってしまっている良いものが、いっぱいあったと考えているのですね」
「その通りです」
「たとえばどんなものですか」
「当時の軍隊に息づいていた軍人精神です」
「一口に軍人精神といっても色々なものがありますが」「上官を敬い、その命令にはなにがなんでも絶対に服従する精神です。今の日本人、特に若い連中にはこれがありません。ブツブツ文句ばかり言ってます。だから日本はますます駄目になっていくのです」
「失礼ですが、あなたはなんのお仕事をされているのです」
「食品会社の社員です」
「管理職ですね」
「そうです。係長をしています」
「では、あなたは会社の運営を軍隊式にやればいいと考えているのですか」
「そうです」
「実際にやれますか」
「むずかしいです。ボク一人ではどうにもならないものがあります」
「会社でもそんな軍服を着て、部下に見せたりしているのですか」
「いや、軍服を着て歩くのはここだけですよ。今日のような日だけですよ」
「八月十五日の靖国神社だったら、軍服を着ていてもおかしくないってわけですね」
「ボクは毎年ここへ来ていますが、ここならボクの気持ちが分かって貰えるのです。軍服姿のボクに共鳴したり、励ましたりしてくれる人が大勢いるのです。それに私とココロザシを同じくする人たちもいます」
「最後に一つだけ聞かしてください。どうせ軍服を着るのなら、上等兵や一等兵の服を着ても同じだと思うのですが、あなたはどうして将校の服を着ているのですか」「だって将校の方が下級の兵士よりカッコいいじゃありませんか。将校はボクの憧れですよ」
「いや、どうもありがとう」
 私が礼を言うと、この陸軍中尉殿はたちまち不動の姿勢をとり、あたかも上官に対するようなうやうやしい挙手の敬礼をしてくれました。日中戦争に従軍中の私は下っ端の兵士だったので、こちらから将校に敬礼することはあっても、将校から一度も敬礼などして貰ったことがなかったので、なんだか嬉しくなってきましたね。
 
 もう一人のいかめしい髭を生やした四十男は、恰幅がよく、鼻の下に蓄えた髭のせいもあってか、見事に陸軍将校になりすましていました。この男はどこで手に入れたのか、陸軍大学出身のエリート軍人であることをあらわす徽章(俗に天保銭とよばれていた)を胸につけ、軍刀はもとより拳銃(中身はいざ知らず、ケースは旧軍隊のもの)や双眼鏡まで身につけています。こうした戦争体験がないにも関わらず、軍服姿に身をやつした男たちは他にも数名見受けられました。また自分は少年兵としての従軍体験があると自称する七十代の男は、これまたどこで手に入れたのか、日露戦争当時の将校服と礼装用の軍帽を被っていたのには驚きました。
 
 一方、その表情、年齢、着用している軍服の具合からして、これは「ホンモノのもと陸軍兵士」と思われる男も数名いました。これらの男はいずれも下士官や上等兵の階級章をつけており、将校姿の者は一人もいませんでした。

 しかし、なんといっても軍服姿の男たちの圧巻は「海軍陸戦隊」の将兵になりすました一行でした。海軍特有の夏季用の純白の軍服に、白のカバーをつけた軍帽をかぶり、白のゲートルをつけるという洒落た軍装で、腰には帯剣をぶらさげ、肩には三八式歩兵銃をかついでいるのです。こうした出立ちの兵士十名あまりを指揮する将校役の男は、もう八十に近い年頃で、もとはホンモノの将校だったようです。もう一人、軍艦旗を持つ旗手役の男もそれくらいの年格好でした。このように「陸戦隊」の中には従軍体験がありそうな男は半分ほどいましたが、あとは戦後生まれの連中ばかりでした。
 それにこの「陸戦隊」には軍楽隊の制服を着た喇叭手が数名ついていました。この喇叭手も戦後生まれの連中ばかりです。
 午前十一時三十分から、この「海軍陸戦隊」の行進がはじまりました。指揮するのは例の「海軍将校」です。「軍楽隊」の喇叭手が吹き鳴らす勇壮な進軍ラッパにあわせて、はためく軍艦旗のもと、兵士たちは足を高く揚げ手を大きく振り、歩調をあわせて行進するのです。
 すると面白いことには陸軍将兵の軍装をした連中も、この「海軍さん」の後にノコノコとついて行進を始めました。参道に蝟集していた善男善女は、この時ならぬ「軍隊」の行軍にあわてて道をあけ、驚いたり呆れたり、喜んだり感嘆したりの表情で、この行進を見守っていました。いそいそとカメラのシャッターを切る連中も沢山いました。どこかのテレビ局も取材に来ていました。
 兵士たちは拝殿の前まで突き進むと、「海軍将校」の号令で「靖国の御霊」に向かって最敬礼をおこないました。つまり将校連中は抜刀の礼を、兵士たちは捧げ銃の礼をおこなったのです。
 私はこうした「海軍陸戦隊」の行進を見るのははじめてでしたが、こうした軍人連中はもう何年も前から八月十五日の靖国神社に姿を見せるようになっているとのことでした。
 
 神社境内には土産物を売ったり、軽食や飲み物を出す茶店が二軒あります。どちらも大入り満員です。なにしろ猛烈な暑さですから、カキ氷や冷たいジュースなどが飛ぶように売れています。私も時々ここへ立ち寄っては、缶ビールを求めました。私は午前九時から午後四時まで、焼けつくような陽を浴びて境内を歩き回っていたものですから、背中から腰にかけて、まるで水につかったように汗びっしょりです。これじゃ大いに水分を補給しないと脱水症状になるぞと、自分勝手な理屈をつけた私は、だいたい一時間半ごとに一本ずつの缶ビールを平らげました。昼食はタコ焼き一皿でした
 
 茶店にも陸軍や海軍の軍服を着た男が七,八人、酒やビールを飲みながらたむろしており、そのまわりに人だかりがしていました。その中に陸軍軍曹の肩章をつけた男がいました。年の頃はもう八十に近いでしょうか。昔の私も着ていた木綿の軍服で身を固め、肩から拳銃の革ケースや図嚢などをぶら下げ、腕には「週番下士官」の腕章を巻き付け、腰には軍刀をぶら下げていました。またこの男は手に軍隊喇叭を持っていました。するとそこへ、年はもうすこし若くて、白い帽子をかぶり半袖シャツを着た男がやはり軍隊喇叭を持って現れました。
ここで期せずして二人の喇叭手の吹奏会が始まったのです。起床ラッパに消灯ラッパ、突撃ラッパなど次々と吹いていきます。昔取った杵柄というのでしょうか、ホンモノの軍隊喇叭の音です。年のせいか少し猫背の陸軍軍曹殿は、時々、喇叭を口から離しては、差し入れのコップ酒で元気をつけています。
「五十年前はわれながら惚れ惚れとするようないい音を出して、中隊の人気者だったのだが、年を食らうにつれて、なぜか喇叭の音がだんだん悪くなってくるんだ。やはり喇叭も年をとるんだよな」
 などと言ってみんなを笑わしています。
 
 人だかりの中にいた七十代の半ば以上と思われる、白の帽子に白の半袖シャツの一人の男が、
「もういっぺん、消灯ラッパを吹いてくれんか」
 とリクエストしました。
「そうや、おれも消灯ラッパを聴きたい」
 他の従軍体験がありそうな二,三人もリクエストに同調しました。
 二人の喇叭手は一,二,三と呼吸をあわせて喇叭を吹き始めました。哀調を帯びた消灯ラッパの調べが境内に響きわたりました。
「消灯ラッパを聞くと、つらかった初年兵時代を思い出すなあ。このラッパを聞きながらベッドの中で何度泣いたことか」
 リクエスト男はそばに立っている私の顔を見ながら、しみじみと言いました。眼にはうっすらと涙を浮かべています。
「生で聴く消灯ラッパは、文句なしにいいですね。五十何年ぶりかで聴く消灯ラッパ……。私も初年兵の時はこれを聴きながら、人知れず泣いたものですよ」
 私がこう言うと、男はいきなり私の手をしっかと握りしめてきました。男は帽子をかぶりワイシャツを着ていましたが、見ると首からなにか奇妙なものをぶらさげています。お守りにしては大きすぎるのでよくよく見ると、なんとそれは色あせた褐色の布表紙がついた「軍隊手帳」ではありませんか。
「ほう、軍隊手帳とは珍しいですな。私はとっくの昔に棄ててしましましたが」
 私が言うと、
「いや、こういうものは一生大事にして、とっとくべきものですよ。私はもう一つ、これも持っています」
 男はこう言って、緑色の表紙の『被爆者手帳』を見せました。これも軍隊手帳といっしょに首からぶらさげていたのです。
「原爆が投下された時、あなたは広島にいたんですか。よく助かりましたね」
「そうです。爆心地からかなり離れたところにいましたから……、で、あなたは、どこで終戦を迎えましたか」
「私は中国、中支で終戦をむかえました」
「何年ぐらい向こうにいたんですか」
「敗戦後の捕虜収容所生活も入れると足掛け四年になりますかな」
「ほう、歴戦の勇士じゃありませんか。それなら、やっぱり軍隊手帳を持っていないといけませんなあ」
 どういうわけか、男は軍隊手帳にえらくこだわっています。私はいまさら軍隊手帳みたいなものを人に見せびらかして、自分がホンモノの兵士だったことを示す必要はないと思うのですが、この男にとってはそれが必要なようなのです。
 
 ところが、もう一人、私はビルマのインパール作戦に参加して、九死に一生を得て帰還したという男と話をすることができました。年の頃はやはり七十代の半ばを越えており、半袖の白シャツをきて、頭にはやはり白の運動帽をかぶっています。驚いたことには、この男も私に自分がホンモノの復員兵であることを示す古ぼけた書類を、わざわざズボンのポケットから出して見せたのです。別に私がこの男がニセモノの元日本軍兵士だと疑ってかかったわけでもないにかかわらずです。
 どうやら八月十五日の靖国神社境内には、どこからやってくるのか、大勢の元日本軍兵士が集まってきており、茶店の中やあちこちの木陰の涼しいところで、おのが従軍体験を披露しあったり、戦時中の懐旧談に花を咲かせる輪がいくつもできているのです。老若の女性もこうした輪に加わっています。
 ここで私はハッと気付いたのですが、こういう話し合いの場では、自分がホンモノの兵士だったことを示す軍隊手帳とか書類がものをいうようなのです。私は今更、自分が元兵士だったことを強調したり、証明したりしてみてもはじまらないと思うのですが、戦争体験などろくに無い連中が大きな口をたたいているのを見ると、自分は本当に弾丸の下をくぐったことがあるのだと言いたくなってくるのかもしれません。
 
 今の六十代以上の日本人には、多かれ少なかれ戦争体験があります。そういう連中は毎年、八月十五日がやってくると心が落ち着かないのです。家にじいっとしていることができなくなってくるのです。どこでもいい、戦争と関係がある会合に参加したり、誰かと戦争の思い出など語り合える場所が欲しくなってくるのです。
 私はそうした連中の気持ちに一番よくこたえているのが、他ならぬこの靖国神社であることが、今度ここに来てはじめて分かったのです。神社には、おのれが抱く右翼的な思想や心情に基づき、ここを舞台に活動するためにやってきている団体構成員の姿が目立ちますが、ここに来ている人たちのみんながみんな右翼的な思想を持っているとは限りません。
 東京都内やその近郊に住んでいる戦争体験者にとって、靖国神社は行楽がてらにもっとも行きやすいところなのかも知れません。もちろん、戦争体験者だけでなく、戦争で肉親を亡くした人たちも大勢靖国神社へやってきているようです。

 一方、八月十五日の靖国神社境内では、大村益次郎の銅像の背後にある広場で、五百人も収容できる大テントをはりめぐらして、「英霊にこたえる会」ならびに「日本会議」主催の「第十二回戦没者追悼中央集会」なるものが開かれていました。
 私は時々、この集会も覗きましたが、テントの中は満員、その周りにも聴衆がぎっしり詰めかけて大変な盛況でした。
 集会は午前十時半からまず「国歌斉唱」ではじまりました。数百名の群衆が合唱する「君が代」はなかなかのものでした。私はこんなに大勢の人が「君が代」を歌うのを聴いたのは、戦前の小学校の卒業式以来でした。
 次に「靖国神社拝礼」。これは神社の宮司の采配でおこなわれたところをみると、この集会には神社側も深く関わっていることが分かります。
 その次は「終戦の詔書の玉音放送」ということで、一九四五年八月十五日に昭和天皇が放送した言葉がスピーカーから流されました。司会者から「謹んで拝聴するように」との注意がありました。当時私は中国は華中の前線にいたせいもあって、いままでこの放送を聴いたことがなかったのですが、なるほどむずかしい漢語ばかりで何を言ってるのかよく分かりません。が、ふとテントの中を覗き込むと、頬を涙で濡らしながらこの「玉音放送」を聴いている人が何人もいたのには驚かされました。
 また集会の主宰者たちは、八月十五日のことを「終戦詔書奉戴記念日」と呼んでいるのも驚きでした。
 次は主宰者代表挨拶とか各界代表の提言などがありましたが、この日、靖国神社に参拝してきた多数の国会議員が次々と紹介される場面もありました。これは後で新聞を見て分かったのですが、この日、小渕内閣の閣僚八名(前日までには五名)と「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」のメンバーが衆参あわせて五十四名。秘書らによる代理参拝が百六名あったようです。
 しかし、小渕恵三首相は参拝しなかったので、「英霊にこたえる会会長の堀江正夫なる人物は「靖国神社に参拝しないような総理は、一国の指導者としての資格はない」と息巻いていました。
正午になると戦没者に対する一分間の黙祷がおこなわれ、その後、近くの日本武道館で開催されている政府主催の「戦没者追悼式」における天皇の「お言葉」を、ここでは電波を通じて「拝聴」するようにスケジュールが組まれていました。
 その後、更に「声明文」の発表があり、最後はなんと、二十数名のうら若き女性合唱団がリードする「海ゆかば」の大合唱で集会が閉じられました。時刻は午後十二時半でした。
 ところで、この集会の性格を端的に物語る「声明」をながめますと、まず「大東亜戦争肯定論」の立場から、「わが国を非道な戦争を遂行した侵略国家であると声高に喧伝するものは、英霊を冒涜し、同時に国際社会における日本の地位や信用を失わせようとする由々しき動き」であり「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」問題は虚構にすぎないと主張しておりました。(「声明」の全文は付録として、終わりにつけておきます)
 
 さて私は、午後四時頃まで神社境内にいましたが、三時すぎから日本武道館での追悼式に参加していた約六千人の遺族の一部の人々が、観光バスを連ねて続々と参拝にやってくるのに出会いました。秋田、山梨、静岡、山口など県別にのぼりをたてて、拝殿に向かっていきました。婦人は一様に黒い服を着ております。その中に「大阪府遺族連合会」の印を胸につけた一団もありました。
 私は複雑な想いでもって、この人たちの姿をそっとながめていたことです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

   声 明
 
 今を去る昭和六十二年八月十五日、我々は戦没者に対する追悼と感謝の念をこめて第一回戦没者追悼中央国民集会を開催した。爾宋、年ごとに本集会を重ね、本年で早や十二回目を数える。
 ふりかえってみれば、戦後五十有余年、我々日本人は戦争で荒廃した国土と敗戦の虚脱感の中から祖国の再建を期して営々と努力を積み重ね、かつての焼土には高層ビルが林立するまでの世界有数の経済大国として再生した、この平和と繁栄がここ靖国の社に鎮まる英霊の尊き功を礎として築かれたものであることを片時も忘れてはならない。
 しかるに、ここ数年宋、国際金融資本の影響もあって一層深刻化した経済不況と踵を接するかのごとく、わが国を非道な戦争を遂行した侵略国家であると声高に喧伝して英霊を冒涜し、同時に国際社会における日本の地位や信用を失わせようとする由々しき動きが世界的に広がっている、
 その端的な現れが虚構の「南京大虐殺」を宣伝するために中国系米国人アイリス・チャンによって書かれた『レイプ・オブ・南京』の出版であり、同じく虚構の「従軍慰安婦」問題を国際世諭に執拗に働きかけようとしている韓国系米国人の活動である。これらは決して単発的な現象ではなく、裏面で連動しており、まさに反日的歴吏観による世界的包囲網が着々と形成されつつあると言わざるを得ない。時あたかも本年秋には江沢民中国国家主席、金大中韓国大統領が相次いで来日する。その際には、またしても過去の歴吏に対する反省と謝罪の間題が浮上してくるであろう、
 過去、政府は中韓両国の要求に屈して反省と謝罪を繰り返し、その度ごとに心ある国艮は失望してきた。しかもそれでもなお中韓両国は満足せず、今回再びわが国に謝罪要求を突き付けようとしている。敢えて我々は政府に対して、強く要望する。この機にこれまでの自虐的な姿勢を根本的に改め、独立国家としての毅然たる態度で望まれたい、と。
 そして、何よりも二百四十万余柱の英霊に懇篤なる真心を捧げ、国民としての誇りと自覚を取り戻すことが、我が国の平和と繁栄を守り抜いていくための喫緊の課題であることを認識し、中断されて久レい靖国神社への首相の参拝を再開することである、
 我々の前途は依然として厳しいが、回天へ向げての展望がないわけではない、映画「ブライド」の大ヒット、小林よしのり氏の『戦争諭』の爆発的な売行きにその予兆を見る。我々は、これを大いなる転機とすべく、いまだ日本人を呪縛し続ける東京裁判史観の克服を目指してさらなる国民運動を展開していくことをここに改めて誓う。
 右、声明する、
 
 平成十年八月十五日
    第十二回戦没者追悼中央国民集会
              英霊にこたえる会
              日本会議   

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